https://diamond.jp/articles/-/308940
技術者の「日本離れ」が進んでいる。国内大手企業に勤めるエンジニアや研究者が海外メーカーに引き抜かれ、技術が海外に流出するのだ。長く勤めて安定した大企業正社員の立場を捨てて、海外に出る技術者は、何を魅力に感じて転職するのか?2010年にサムスンに引き抜かれ、10年間勤めたある日本人研究者が、どのように&どんな条件でサムスンに誘われたのか、勤めてみて分かったサムスンと日本の一般企業の違い、韓国社会のどこが良かったかなどについて語る。(ビジネスライター 佐久間 俊)
閉鎖的な島国、日本の技術の海外流出に歯止めが効かない。
2021年のノーベル物理学賞を受賞した、日本出身で米国籍の気象学者、眞鍋淑郎氏の言葉は記憶に新しい。真鍋氏は「日本人は調和を重んじる。イエスがイエスを意味せず、常に相手を傷つけないよう、周りがどう考えるかを気にする。アメリカでは、他人にどう思われるかを気にせず好きなことができる。私は私のしたいことをしたい」また「私は日本に戻りたくない(略)なぜなら調和の中で生きる能力がないから」と話している。
眞鍋氏でなくても、現在の日本で研究者が自由に研究に打ち込むことは難しくなって来ているのは事実だ。日本でそんな違和感を抱え、私は韓国という新天地を選んだ。
2010年当時、私は国内大手材料メーカーで研究者として勤務していた。
朝から雨が降っていたある日、総務課経由で私宛に外線が入っていると連絡があった。いぶかしがりながら回送されてきた受話器を取ると、それは怪しいヘッドハンターからの電話だった。
当時は日本社会全体としてエンジニアの転職(引き抜き)が活発であった時期であり、私も以前から同じような勧誘は何度か受けたことがあったので、特に驚きはしなかった。私はいわゆる古いタイプの会社員であることを自覚している。定年まで勤め上げるのが当たり前、転職には全く興味がなかったし、むしろ転職していく元同僚を憐れんでいた方ですらあった。「怖いもの見たさで、一度くらい話を聞いてみるのもいいか。酒の席で話のネタになるかな……」などと思い、その人と自宅近所の駅の喫茶店で会うことにした。
初回面談の内容はこんな話だった。「サムスンで素材開発を行ってほしい」「あなたの特許出願内容を見て声をかけた」「来て頂けるなら給与は現行の1.5倍出す」と言う。それまで勤めていた会社で心身ともに少し疲れていたタイミングだったこともあり、提示された年棒と残りの会社員人生の期間をあざとく計算しつつ、再度面談するということで一旦別れた。
2回目の面談では、給与は現行の1.7倍に上がり、より具体的な職務内容が提示された。しかしこれまでのキャリアや人脈を捨て、日本を出て韓国にある研究所へ移籍することになるのだ。身軽な単身者とは言え、そうは簡単に決められない。
これから海外に行って何年務めることができるか不安があったし、体力的、精神的な限界もあるだろう。急な病気・事故などに遭うこともあるかもしれない。将来貰えるであろう日本での退職金や厚生年金が激減することも容易に計算できた。また、サムスンを退職した後で日本の会社で再就職できるのかという不安もあった。それに、一部には「韓国企業に引き抜かれて転職した人は裏切り者だ」という極端な考え方の人がいることも知っている。
そんな後ろ向きなことばかり色々と考えていると、数日後には3度目の面談を要請された。今度は高級料亭で、しかも先方の役員クラスがわざわざ韓国から出張してきて説得するというではないか。
私は当時40代になったばかり。国内の会社ではふるいに掛けられ、これ以上役職としては上がれそうもなかった。しかし逆に言えば、日本企業に勤め続ければ法律に守られている。あくせく必死に働かずとも、適当に優先度の低い実験をしながら定年まで勤め上げれば、安定した生活を送ることもできる。実際、そういう人間は研究所には多くいた。
そう思っていたはずなのだが、面談を進めていくうちに気持ちが変わってきた。そんなぼんやりとした人生を送るよりも、研究者として世界的大企業に求められて働くほうが、断然刺激的な気がしてきたのだ。3回目の面談の最後には、「これから自分は世界で戦うんだ」という、一種の使命感のようなものまで感じるようになっていたのをよく覚えている。
ヘッドハンティングは、新興宗教の勧誘に近いものがあるのかもしれない。心が弱っているときにやってきて、それまでの自分の考え方をがらりと変えてしまう。
そうこうしているうち、気が付くとソウル行きの航空券と高級ホテルが用意されていた。週末を利用した韓国ツアーだ。韓国に着くと、設備見学や担当役員、上長予定の人との面談が待っていた。細かい契約を文書化して締結し、初めて電話を受けてから3カ月後には、人生初の退職届を出していた。
こうして私は韓国に引っ越し、サムスンで働くことになった。ここからは少し社内外の環境について述べたいと思う。
サムスンは韓国を代表する大企業なだけのことはあり、基本的にはほぼあらゆる面で日本の会社と同等以上のサービスが用意されている。韓国人社員がつくるサムスンの企業文化は、日本の会社にとてもよく似ている部分もあるが、日本では見かけない、ユニークな面もいろいろあった。
例えば福利厚生。私の前職の会社との比較しかできないが、福利厚生で利用できるカフェテリアポイントは日本企業と同じようにいろいろと利用でき、契約している宿泊施設や遊興施設も数多い。また、通販にも利用できるので、家庭を持っている社員には好評のようだ。
また、特筆すべきは年1回の健康診断である。サムスン系列の病院で行うのだが、まるでホテルのように豪華だ。検診には最新鋭の装置を使い、診断後2週間以内には結果が送付されてくる。サムスンの健康診断はどんな小さな異変も見逃さないと、韓国内でも定評があるらしい。特に胃腸の内視鏡検査はすばらしく、睡眠薬で眠っている間に全て完了する。これは是非日本でも普及してほしいと切に思う。
また、社内食堂ではバラエティーに富んだ食事が1日3回無償で提供される。サムスンには労働組合がないのだが(※類似の働きをする組織はあるが、組合ではない)、他にも、誕生日や結婚記念日には会社からプレゼントがもらえるほか、運動会や文化イベント、夕食会など飽きが来ないようにイベントが目白押しだ(※コロナ前)。
面白いのは、文在寅政権になってから週40時間労働制が推進されたおかげで、勤務時間が明らかに短くなったことだ。それまでは土曜日にも当たり前のように出勤していたのだがその習慣もなくなり、無意味な残業が激減したように思う。サムスンのトップはいろいろな罪で頻繁に収監されていたが、会社は国のお手本になろうと努力しているように見えた。
しかしこれだけ恵まれた環境でも、起業や進学といった理由でサムスンを去る韓国人社員は多かった。彼らの上昇志向には感服する。
もう一つサムスンの社内環境で印象深かったのは、セキュリティーの厳しさだ。仕事に支障をきたすほど厳格に情報セキュリティーを推進していた。
日本からサムスンの会社、工場、研究所などへ出張で来たことがある人なら、建物に着いてから入場までの時間の長さに辟易(へきえき)したことがあるだろう。社内で使用する全ての紙にはメタルファイバーが埋め込まれており、カバンに隠していても出入口の金属探知機を通過することができないのは有名な話だ。
USBメモリやSDカードなどを持っていても、社内のパソコンでは認識されないので誰も使わない。それどころか、個人用に支給されるパソコンの内部ハードディスクにはデータを記録することができず、特別なクラウドに保管するようになっている。パソコンを記録媒体として使わないのだ。
また、個人所有のスマホには特別なアプリをインストールされ、社内ではカメラが起動できないようになっている。さすがに会社も全社員に強制することはできないので、アプリのインストールを拒否することも可能だ。ただ、そうなると、カメラのレンズ部分に特殊なシールを貼られるまで入場できない。なお余談になるが、社員は皆、スマホはGalaxyを持っているイメージだったが、実際には「かっこいいから」という理由でiPhoneを持っている率も結構高かった。
ミセモンジ(微細粉塵)で晴れ間が少なく、曇りの日が多い韓国。韓国暮らしについても少し紹介しておこう。
韓国では、新しいテクノロジーを使いこなしている部分と伝統を守っている部分がうまい具合に混じり合い、日本人の目にはユニークな社会を形成しているように見える。みんながスマホまたはパソコンを持っているという前提で社会インフラができており、日本のように弱者に合わせた“優しい社会”ではない。高齢者の方はどう考えているか分からないが、スマホが使える私の年齢だと、とても合理的に見える。
例えば、外国人登録証と銀行口座を紐づけして登録しているので、役所の手続きなどはほとんどオンラインで完結する。最近の例では、新型コロナウィルス関連の生活支援金がこういったシステムのおかげで当日入金されたのは有名だ。日本でこうしたことが進まないのは個人情報を守るべきだという声があるからだろうが、韓国にいると、個人情報の心配より利便性だと感じるし、日本のマイナンバーカードは帰国したらすぐに登録しなければと強く思った。
また、法的規制が少ないのか規制されるのが遅いのか分からないが、韓国ではEVやドローン、電動キックボード等の最新のインフラは、話題になるとすぐに街中で見かけるようになる。日本に比べると規制がゆるく、新しい技術の恩恵をすぐに享受できるので(後に規制が入る場合もあると思うが)社会がダイナミックに見える。もしかすると、日本以外の国はみんなそうで、韓国が特別なわけではないのかもしれないが……。
また、交差点にパラソル(信号待ちの人に日陰を作るため)を設置したり、散歩道や公園が整備されたりと、生活に密着したところに分かりやすく税金が投入されているので、納税者としての満足度も高い。このあたりは税金の使途が分かりにくい日本に比べて、とてもうらやましい点だ。
住環境に関しては、韓国は日本よりも大変かもしれない。
サムスンに勤める日本人には、単身者でも60~80平方メートル前後、2~3LDKのアパートが貸与される。私の住んでいたアパートは、築年数や駅からの距離、室内設備などから考えると、日本人の感覚としては2000万~3000万円程度の物件にしか見えなかったが、ポストに投函されるチラシを見ると7000万円超のマンションらしい。韓国の不動産バブルが垣間見える瞬間である。
物価面ではよく言われていることだが、光熱費、交通インフラなどが安く、食料品は高い。全体としては日本よりも高いかもしれない。コロナ禍の前には、若い韓国人社員がよく日本出張のついでにiPadを買いたいなどと話していた。確かに、たまに帰国すると日本は安いなと感じてしまう(特に飲食関係)。
ここまで紹介したことはすべて、私が在籍した10年間で急激に変化したことだ。この国の進歩の速さはおそろしい。
後編では、サムスンで働いていたときに感じていたこと、働きやすさや人間関係などについて詳しく紹介する。
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